仮想温泉
ぷろめてうす
ドアを開ける。 何もない部屋。 満月をわずかに過ぎた、月の光。
窓は夜空にむかって大きく開かれ、カーテンを揺らして風が吹きこんでくる。
窓辺に小さな机。
カップが一つ。
鉄のベッド。
堅いマットの上に腰を下ろす。
不意に、背後の棚でカタカタと回り始める映写機。 なにもないザラついた壁が、スクリーンになって呼吸を始める。 3…2…1…スタート! ……… …
………
水の音。
大理石に反響してゆたかに流れ続ける水の音。
次第に浮かび上がる、水に彩られた半・室内庭園。夜。水面に砕ける月。
中国服の小男が先刻から話し続けている。 「…そのような奇妙な経緯でわたしのものになった富を、ありきたりの目的に投資することは、な にやら非常ににふさわしくないことのように思われたのです。さんざん悩んだ末に、わたしはとうとう何年も前から頭の中に浮かんでは消えていた、ひどく現実 離れしたイメージに形を与えることにしました。皆さんがごらんになっているのは、まさにそれが具現化した姿なのです。
「ただ、これがわたしの悪い癖で、巨大な温泉地の造営に熱中するあまり、多くの人がどうやってそこを訪ねてく るのかという問題については、とんと考えずにおりました。今宵ここにおいでの皆さんは、それぞれ摩訶不思議な道筋を通って---ことによっては命からがら ---ここにたどり着かれたことでしょう。迷い込んだも何かの縁、どうぞのんびりなさってください。」
深々と一礼して退出する小男。入れ替わりに薄衣をまとった美男美女の群れがスルスルと踊るように現れたと思うと、捧げ持ったランタンで「MENU」を照らし出し、一群の彫像のように静止する。彼等の髪や肩を銀色にふちどる月は黒い森の上に高く。水の音。かすかに揺れる蔦の葉。つめたい大理石を撫でる、やわらかな光の網。
江戸前風呂『大東京』 裸電球ビッグシチー
山田と私 まさに野獣。
娯楽室『うみうし』 テキスト万歩計
露天風呂『黄色い鳥のゐる風景』 脳内骨董品展示場
『ジョンと鰯とあっちの世界』 馬鹿エネルギー研究施設
『虚実皮膜』 免責
蛇のように絡み合いながら畳の上を走っている幾本ものコード。たどってゆくと、机の上の古めかしいコンピュータセット。小さな卓上扇風機の回転音。キーボードをたたいている若い男。黄色い白熱球の電気スタンド。古色蒼然たる木造アパートの二階。
「ふう…」今まで打ってきた部分を読み返して、彼は首をかしげる。「こんなのでいいんだろうか?」しかし考え込んでいる暇はな い。誰かがメニューをクリックするまえに、そのページの内容を急いで打ってしまわねば。ふたたび始まる打鍵の音。(この男、タイピングだけは速い。)カメ ラは彼とコンピュータを捉えたまま不意に窓から飛び出し、空高く舞い上がってアパート、そして街の全景をとらえる。欠け始めたとはいえ、満月に近い月の光 の青い海が、果てもなく広がる濃紺の低い甍の連なりを沈めている。帝都の東方に何十里と続く、白壁の低い家々。辻々に、ゆっくりと流れていく按摩たちの 笛。犬の声。寝静まった家の中で泣いている子供の声。西の空低く、眠らない都の、さびしい薄明かり。そしてその向こう、はるか、はるかに、あおじろい富 士。
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