根源へ!
いわゆる普通の推理小説が私は読めない。物語の前半で張り巡らされた伏線や謎が、結末に近付くにしたがってパタパタときれいに整理され、「こいつが犯人だ!」という極めてシンプルな結論に収斂していく…というプロセスには感心こそすれ、わざわざ何時間も活字をたどって獲得したいほどの快感を覚えた記憶はない。カオスが手際良く刈り込まれていくのが、たぶん私は嫌いなのである。目鼻なんぞなくてもいいから、混沌さんにはフテブテしく長生きしていただきたいものだ。
そんなわけで、私が好きこのんで摂取する物語は、全体の構成感など無視して細部が暴走するタイプのものばかりである。崩壊寸前で曲芸のごとく部分と全体がバランスを保っていれば拍手モノ、勢い余ってブッ壊れるもまた楽し。言葉とイメージの奔流がしばしばストーリーを決壊させてしまう泉鏡花の小説は、それゆえ私の趣味にぴたりと一致する。主人公が悪の親玉に無数の蹴りを叩き込みつつ物理法則を無視してスッ飛んで行ったり、なぜか絶対に弾切れしない二丁拳銃を乱射しながら階段を仰向けに滑り落ちたりする場面ばかりが頭に残って、一向にストーリーが思い出せない類いの、主として香港方面から流れ着く映画群にここ数カ月おサルのように熱中しているのも、おそらくは同じ理由によるのだろう。
暴走する細部は主に馬鹿エネルギーの噴出であり、それに拮抗して全体の体裁を整えようとするのが「おりこうちゃんパワー」である、と私はきわめて乱暴に定義している。しかし、「物語を作る」という、それ自体が生命維持とも種の保存とも直接関係のない行為は、根本的に馬鹿方面からエネルギーを獲得しているのであって、「お利口ちゃんパワー」はそれを作品として切り出すために特殊化した馬鹿力の一形態に過ぎないのではないか、とも私は思う。
他人を罵倒するための語彙が基本的に「馬鹿」「アホ」あたりに集約されてしまって、間違ってもファック方面に噴出したりはしないという、世界にも稀な「お利口ちゃん文化」を誇る我が国においては、当然ながら馬鹿力の価値は不当におとしめられている。小さくて安い電気製品で世界制覇を狙うには結構な国民性だが、「役に立たなくて面白いもの」を産み育てる環境としては実に寒い。全体をきれいにまとめようとする力に対して、噴出する意味不明のパワーが足りなかった場合、出来上がってくるものは栄養価に乏しくて、早い話が食っても元気が出ないのである。縄文土器の、あの過剰な細部を生み出した精神は、一体どこに潜ってしまったのか?以後二千数百年にわたって抑圧された馬鹿マグマが噴出する日を、私は夢見てやまない。
ぶしー! (サイバラ的噴血音)