便所紙産業の興亡

 

 むかしのトイレットペーパーというのはなかなか結構なものだったらしい。びっしりと文字や絵が書いてあって、本来の目的に使用するまえに楽しく暇をつぶすことができた。いつも同じ文面では飽きるので、新しい内容のものが毎朝届けられたというのだから豪勢である。なかでも素晴らしかったのは太平洋戦争の頃。紙不足のためサイズは小さくなったものの、かわりに『紺碧の艦隊』も全裸で逃げ出すような血湧き肉踊る仮想戦記がいつも載っていて、トイレに入るのが楽しみだったそうだ。

 むろん冗談である。しかし完全に冗談というわけでもない。全国的にどうかはともかく、私の祖父母あたりが幼いころには、便所には紙がなくて木の葉を集めて置いてあったようだし(なんせ山奥)、例の紙が毎朝配られるようになってからは専らそれを使っていたらしい。そんな話を聞かされて育ったせいか、私はいまだにときどき後遺症が現れて困っている。すなわち、毎朝配布される「それ」に今ひとつ敬意を抱けないのである。やっぱりあれはオマケつきのトイレットペーパーなんじゃないのか?じっさい、いまだにトイレで「それ」を読みたがる人間は多いではないか。最近のトイレに真っ白な巻紙しか置かれていないのは活字離れの嘆かわしい風潮だが、毎朝配られる「それ」を溜めておいてもごく少量の巻紙と交換してもらえることからすると、等価とはとても言えないながらも互換性はいまだに保たれているらしい。巻紙によって本来の役割から駆逐された「それ」は存在の危機を感じたのか、読めば大学入試や就職が有利になるという「お勉強国家」のイデオロギーに添ったイメージへと転換を図っている。わざわざ「小学生用」と銘打ったものまで作られているのは、「中毒と洗脳は子供のうちに」という麻薬商人もしくはテロ国家的セオリーによるのだろう。幼稚園児が毎朝ハンカチと塵紙を持たされるように、鞄に最新のトイレットペーパーを入れて会社に向かうのが今も大人のたしなみである。うっかり忘れてしまっても、キオスクで買えるから大丈夫。電車の中で、トイレットペーパーを一心に読んでいる人々を眺めるのは楽しい。駅のごみ箱から拾ってでも読もうとするオッサンはちょっと悲しい…

 ゴールデンな日々をひっそり寝転んで過ごそうとする人間をも資本主義は見逃してくれなかったりするわけで、昨日も私は宅配トイレットペーパー売りの襲撃を受けた。

「お兄さん、野球とか興味ある?」

「ないです」

「ビールは飲むよね?」

「飲みません」

「これ最近若い女の子にすごく人気のある映画なんだけど」

「オレ、男です………」

「…………」

白い巻紙に駆逐されて苦しいのは分かります。でもね、拭き心地がダメならせめて読み心地で勝負しろっつーの!

 

よく拭きましょう