4/30
(1) かの「大宮の大巨顔」が通っていた高校に、ゲートボール部ができたらしい。ちなみに部員のことは「ゲレンド」(ゲートボール+フレンド)と呼び、部の略称は「ゲボ部」だとか。いいセンスだ!
(2) 図書館で『シュルレアリスム再考』という画集を見ていたら、かのマグリット画伯がルノワールのタッチをそっくり真似て描いた、「寝椅子に横たわる豊満な髭おやじの裸体画」という確信犯的イヤ絵を発見。私が大金持ちだったらぜひ買い込んで、「イヤな客専用の応接間」にドォ〜ンと擬音付きで飾っておきたい。とりあえず、どっかに絵ハガキ売ってねえかな…
(3) 今週末は芸術科の学生たちが『レザボア・ドッグズ』の演劇版を真夜中に上演するらしい。あいかわらずタランティーノ大人気である。舞台はともかく、彼の映画の不思議なところは、下ネタがやけに気持ちいいことだ。「いきなりマドンナと巨根」「男便所で独白」「ハンバーガーの話ばっかりの殺し屋→その帰りに車内で脳味噌ブチャ!」「用を足して出てきた途端に撃たれるトラボルタ」「臭そうな形見の時計」(←これは某金城くん映画で、イヤ度をアップして前向きにパクられてた)「店内で小便大放出」(←友情出演の『デスペラード』にて)…全部好きじゃっ!
4/25
たとえば「カミソリ陸奥」こと陸奥宗光という人がいた。頭の切れる人物をカミソリに喩えることがあっても、決して「ヒゲソリのような人」と言わないのは何故だろう。「ひげそり陸奥」…いつも濃い髭を剃るのに忙しくて、どちらかというとボーッとした外交官。あるいは他人を捕まえて髭を剃りたがる髭フェチ。はたまた法外な報酬で世界の高級理髪店を渡り歩く、孤高の髭剃り職人…
しかしながら、概して日本人の髭は薄い。私が髭について深く考えるようになったのはメリケンに来て以来のことである。寮にはヨーロッパやアフリカ大陸やインド亜大陸に起源を持つところの種々様々な男どもが集まっているが、彼らの大半は二三日髭剃りをさぼっただけで確実に髭ダルマと化してゆく。週末の寮は過剰に男らしい髭空間であり、月曜の朝、色とりどりの髭塊(←なんと読むのだろう)が洗面所の床に散らばる姿を目にすると、思わず芭蕉のように古戦場の俳句を詠みたくなる。寝ぼけマナコで歯を磨き、うがいをする段になって突然「自分が手をついている目の前の真っ白な陶器の洗面台に電動シェーバーのフィルターから叩き落とされたとおぼしき細かい栗色の体毛がみっしりと満遍なく付着している状態」など発見した日には、日本に帰っても二度と「白い御飯にかつをフリカケ」や「はながつを&冷奴」を食えないのではないかと心配になる。こまごましたものを作るのは得意なはずの日本人が、こと髭剃りに関しては横文字ブランドの輸入品に頼り切っている理由は、おそらく単純な体質の違いにあるのだろう。日本とアメリカでは需要の「濃さ」がまるで違うのだ…
そんなことをぼんやり考えながら、私は緩やかに起伏する果てしない夕暮れの芝生の上を歩いていた。週末には学生センターの食堂が閉まるので、例の「秘境」に建つ、別の寮の学食まで歩かねばならない。今月から夏時間が始まったおかげで、夕方から宵の口にかけての時間がやたら長い。食堂は七時に閉まるのに、表は八時過ぎまで明るいのだ。
そもそも何故ヒゲについて思索していたのかと言えば、綺麗に刈りそろえられた芝生からの無意識的連想であったらしい。犬とフリスビーをすることがこの国の国技なら、そのために芝生を整えることもまた国技の一環だ。芝生なんて放っといてもそんなに伸びないのに…と思うのは異国の考え方である。先週の授業の終わりに「週末は芝生刈らなきゃ」と誰にともなく呟いたさる女性教授の決意ある表情は、それが単なる生活上の必然ではなく、国民的儀式であることを暗示していた。「ヴィガロヴィガロヴィガロ〜♪」と「フィガロ」の替え歌を熱唱するバリトン中年が生け垣の向こうの隣人に呆然と見守られつつ狂ったように芝刈り機を押すだけの「家庭用化学肥料Vigaro」のCMもまた、そのような文脈においてのみ理解可能である。さすがにそんな風に歌いながらゴルフ場なみに広い大学の芝生を人力で刈るのはオペラ歌手が何人いても足りないので、学内の芝生はバイトの学生が小型ブルドーザーのような汎用作業車に芝刈りパーツをつけてガム噛みながら毎日のように刈りまくるのだ。芝生が伸びる季節、朝はいつもそのエンジン音で目が覚める。
しかし夕暮れになるといつも花の色だけが浮かび上がるのは何故だろう。入念に管理された芝生にも、ところどころ黄金の眼のようなタンポポが象眼されて春を感じさせる。花や葉っぱは日本のタンポポと同じなのに茎だけが短いのは、芝刈り機に首チョンパされなかった背の低い個体だけが子孫を残したせいらしい。いわゆる平家ガニ的進化である。平家といえば、図書館の日本研究コーナーに、合戦絵巻を現代的に解釈した面白い画集があった。武者のいでたちが全員フンドシ一丁に兜だけ、鎧の代わりに全身入れ墨という男らしさである。取り憑かれたように描き込まれた兜や入れ墨のディテールが素晴らしい。大河ドラマもそろそろ飽きたから、このノリでぜひ一本作ってほしいものだ。
歩いているときというのはどうしてこう益体もない事ばかり浮かんでくるのだろう。先月あたりまで、メシのたびに大雪原を渡らされるのは勘弁してほしいと思っていたが、この季節になると、食堂まで延々歩くのも悪くない。ただ問題は……のんびり散歩して自分の部屋に帰ってくると、いつのまにかまた腹が減ってたりするんだな。
4/18
いつぞやも書いた「外国映画研究会」は、毎週木曜と金曜の夜に上映会を行っている。一応海外の文化をまじめに考えようというサークルらしいので、馬鹿映画が少ないのはチト残念だが、一回4ドルなので安いものが好きな私は毎週のように覗きに行くのである。今週は短篇自主映画をいくつも上映していた。いつになく面白いのが多かったので感想など。
"HEPA!"
エディ・ゴルドみたいなカポエラ兄ちゃんがスタジオの大鏡の前でひとしきり演武をした後、こんどは「たぱたぱ♪」とボンゴを叩き始める(芸の多い人だ…)。とにかくリズムとダンスだけを見せようという映画である。その見せ方がなかなか凝っていて、ダンスシーンは「油絵アニメーション」なのだ。抽象画に近い叩きつけるようなタッチで描かれたダンサーたちが、極彩色を撒き散らしながら踊る踊る踊る!荒っぽい絵でコマ数も少な目なのに動きがやけに生々しいのは、まず実写で撮影しておいたものを一枚一枚絵筆でトレースしているせいらしい(ときおり挿入される実写映像でそれがわかる)。口で言うのは簡単だが、大変な作業だ。その代わりアニメだから金をかけずに特撮めいたことができる。回転するダンサーの周りに台風のような渦がいくつも沸き起こり、ぶつかりあいながら巨大化してゆくのだ。「たぱたたぱたたぱたぱたぱ…」と次第に高鳴りながら走り続けた音楽と踊りは、最高潮に達したところで「タン!」と残響をのこして唐突に終わる。真っ暗になった画面にスタッフの名前がパッパッと表示されて、おしまい。
"Where Lies the Homo?"
あるゲイの自伝的回想。面白いのは、一人称のナレーションに導かれる映像の大半が、当時の映画やテレビからの引用で構成されていること。語りに即した映像が借用されることもあれば、時代の気分を示すニュース映画が脚注として使われたり、時には一見まったく関係のないシュールな画面がモンタージュ的に登場する。ほんの数分間のオリジナル映像で「私」の少年時代を演じるのは凄い美少年で、監督の趣味&ナルシシズム大炸裂。ちなみに引用部分ではオードリー・ヘップバーンが「私」の分身らしい。あいかわらずあの世界のアイドルなんだな…
"Sid"
一般に、アメリカの国民的スポーツはアメフトやバスケだと思われているが、私の観察によれば日常レベルでの国技は「芝生で犬と遊ぶこと」である。「うちのシドはゴム製のオモチャ肉に噛みついてぶら下がったままグルグル振り回してもらうのが好きなんですよ〜」という分かりやすい主張を持った、一発ネタ主観映像作品。ぐるぐる回るハンディーカムの手持ち映像は目が回りそうになるが、もともと出目金のように出っ張り気味の小型犬の眼が、遠心力によって(?)ますます飛び出してゆく姿はアホらしくも楽しい。とかく批判される日本の親馬鹿ビデオも、このくらい我が子をオモチャにすればウケを狙えるだろうに。
"A Meditation on Revolution"
「革命についての瞑想」。あえて白黒、音声なしで撮影された、あるアフリカの都市の一日の記録。自転車に乗った男が時折通り過ぎるだけで人気のない夜明けの石畳の街路の俯瞰や、アパートの共同キッチンでしきりに話しながらのんびりと夕飯の支度をする主婦の早回し映像(画面の中心では洗濯物の靴下が細かく揺れ続け、右端では子供が一人で遊んでいる)といった何でもない生活の断片が、非常に美しい。街頭でカメラを向けられて意識する若者と、淡々としている老人。半ズボン一つで遊んでいた六歳ぐらいの子供たちが、カメラに気づくとてんでに「アチョーッ!」と某カンフースターの真似を始めたのは個人的に面白かった。ラストに引用されたチェ・ゲバラの永久革命思想がこの映画で十分に伝わったかどうかはともかく、全世界のボンクラ少年に憑依して今なお生き続けるブルース・リー主義の普遍性は非常に納得できたのである。
"SHANGHAIED TEXT"
「上海」を動詞で使うと「誘拐する」という意味になるらしい。日本でも昔よく言った「香港に売り飛ばすぞ」みたいなもんだろう。それはともかく、このおフランス映画、冒頭五分ぐらいはどっかの田舎の何もない風景にアンビエントテクノみたいな音がぼわ〜っと重なるだけの途方もなく退屈な代物で、「あああ、このまま十分も続けられたら俺は死ぬ、脳死する!」という危機感を抱かせたが、波や流れる水の映像が登場するあたりから急に面白くなった。水や風景の上に、次々とオーバーラップする戦争や革命や行進する人々の古いニュース映像。侵入する音楽。ワーグナー風の大編成オペラとシュプレヒコールとフォークソングとロシア語(?)でしゃべるおばちゃん声と大歓声とノイズと銃声とエンジン音と遠い爆発が同時に聞こえ出す頃には画面にも五つぐらいの映像が半透明に重なりながらめまぐるしく移り変わっている。一貫して背景にあるのは起伏する大地の眺め、そしておそらくその比喩であるところの、なんか横になって悶えている豊満な女体。オリジナルなんてものはもはやこの世に存在しなくて、信じられるのは編集や引用の技術だけなのさ、という最近よく聞く主張を思い出しつつも、妙に感動的な映画であった。そういえば題名からして開き直っているのである。だとすれば、この感動もまた引用されたものにすぎないのだろうか?
"ALONE"
'50年代あたりの古き良き白黒映画を偏執的に編集した、まさに一人遊び映画。たとえば台所に立つ母親に少年が外出前のキスをするというなんでもない愛情表現が、数コマ単位の執拗な逆回転とリピートによって「少年に撫で回されたオバハンが恍惚の表情でひくひく痙攣する」という「見てはいけないもの」に変貌。直前の映画が「カリフォルニア在住の女性芸術家によるカンボジア大虐殺と米帝の歴史的犯罪についてのとりとめのないビデオ書簡集」という、やたら長くてしんどい作品だったせいか(あまりにダルい構成だったので、書く気もしません。道義的に正しければ退屈でいいってもんじゃないよな。)、場内ひきつりながらも大爆笑。二夜連続のプログラムの最後にこれを持ってくるあたり、映研の連中は観客心理の機微をつかんでいるのか、それとも心底バカ映画が好きなのか…
4/8
(1) となりの寮は現在「改装中」ということで、人が住んでいない。そういえば去年の夏の終わりにここに来たときから、ずっと改装中だ。べつだん工事をしている様子もないあたり、大学当局の深謀遠慮が感じられる。今日も建物の前を通りかかったら、一面に蔦の這う煉瓦の壁を器用に駆け上がったリスが、煤けたカーテンの掛かった二階の窓のところでフッと消えてしまった。よく見ると、一カ所だけ拳大にガラスが割れて格好の入り口になっている。すでに部屋の中はリス好みに「改装」されている最中に違いない。何年か後でドアを開けた職員は、いきなり廊下に溢れ出したドングリの洪水に腰まで埋まって驚くことになるのだろうか…
(2)「銀河鉄道もの」というのは---そんなジャンルが成立するかどうかはともかく---やはりSLで車内がガラガラに空いてるからこそ風情があるのだ。酔っぱらいと痴漢を満載した金曜の夜の京浜東北線なんぞが宇宙を飛んでいる図は、あまり想像したくない。浮遊する無重力ゲロで車内大パニック。
4/6
(1) 四月三日に復活しますなどとキリストのようなことを宿帳に書いてしまってから、部屋に戻りさえすれば自動的に文章が書ける自分ではなかったことに気がつくまで、結構な間があった。あいかわらず間抜けだ。明けて四日は復活祭。食い物を求めて無人の大学をさまよい出た私は、コンビニを含む村中の店がすべて閉まっているのに気づいて行き倒れそうになった。そんな中で一軒だけ商いを続けていたのが例のコンピュータ屋である。いつもの姿勢で店の奥に座っている主人の姿には華僑の意地が感じられたが、残念ながら例によって客は入っていなかった。それにコンピュータは食えん。
(2) というわけで名画座のリンクを入れ替えてお茶を濁すのです。なんかページのタイトル自体が変わったような気もしますが、もちろん気のせいです。ほんとなら前口上も毎回変えたいんだけど、最近バカパワー欠乏気味で駄目っす。へにょ。
3/24
なにせ私が、好きこのんで住んでいたぐらいなもので--------
総武線本八幡界隈というのは、小綺麗な場所でも上品な場所でもない。駅裏広場ドトールコーヒーの二階窓際席で粘っていればすべてを眺めることができた。路上駐車の自転車が歩道に溢れかえってまともに歩けない、せせっこましいロータリー。雑誌ばかりの本屋と中華料理屋と薬局と一杯飲み屋と銀行の無人キャッシュコーナーとパチンコ屋。来る日も来る日も懲りもせずぐるぐる回る二十四時間。真っ昼間からできあがった日雇い風のおっさんが全財産を騒々しい機械に吸い込まれた腹いせに通りすがりの自転車を蹴り上げたら持ち主の中学生に本気で殴り返されて亀のように路上にうずくまり。暗くなる頃には洪水のように戻ってくる勤め人相手に髪と脚ばかり長い蛍光ピンク色の職業婦人の群れが営業活動を開始。夜更けには土着のやんきい集団(自称チーマー)が独りご機嫌で帰ってくる係長から赤い撥ねの共同募金。そして爽やかな黎明にはへべれけの友人を私がベンチに捨てて帰ったりする素敵なところである。
ガード下の暗がりを抜けてパチンコ屋とバーと成人ビデオ屋とゲームセンターと焼鳥屋とカラオケ屋と煙草屋とケバケバしい若向けの床屋とその他もろもろよく憶えていないもの脇を通り過ぎたところにある我が安アパートのそばの自販機で缶コーヒーを買っていたとき、ふと視線を感じて後方を振り返ったら赤いランドセルを背負った小学生がハングリー精神みなぎるマナザシでこちらをじっと見ていた。なんとなく意図するところは分かったものの格別の方針も浮かばぬまま半ば自動的に90円だか80円だかのお釣りと重い熱の詰まった缶を手にして機械を離れたら、小娘いきなり機械にダッシュしてカチャカチャと釣り銭を調べている。…やはり十円ぐらい残しておくべきだったのだろうか?いやしかし。なにをどうしても罪悪感が残りそうだったことだけ憶えている薄暗い冬の日。
3/12
どこの大学にもANIME研究会というのはあるものらしくて、このあいだ立ち寄った隣町の大学にもしっかり上映会のチラシが貼り出されていた。それらの資料から判断する限り、『AKIRA』や『攻殻機動隊』あたりは別格として、基本的にメリケンの若い衆にウケるのは「これといった取り柄もなくひっそり暮らす青少年の身辺に突如この世ならぬ美女各種が舞い降り、ひたすらじれったいドタバタを繰り広げる」たぐいの、ひとむかし前の和製アニメが中心である。暗い少年が半なまタイプの決戦兵器に乗って毎回死にそうになったり、孤独な少女がネットワークと現実の狭間で電波ズビズバ、みたいな90年代日本の壊れ系作品群は、少なくとも今のところポピュラーではないようだ。これを単純と言うべきか健全と言うべきか、それとも単に時計が十年遅れているだけなのか、まだ私には分からない。しかし、十代の早いうちからデートやダンスパーテーが青少年の正しいタシナミとされるメリケン国でオタク道を貫くのは、ゲイ道を極めるのと同じぐらい厳しい人生のような気もする。セル画の美女たむろする人工楽園に逃げこみたくなる気持ちも分からんではない。「本の山に隠れて女気のない二十代→真面目なんですね」という明らかに間違った論理がしばしば罷り通る日本は、その意味では住みやすい環境であった。この国では私、ガイジンだから楽だけどさ…
3/8
「色気なし」と書いた紹介文が頻繁に「色気」で検索に引っかかってしまう問題を解決すべく、遂にNETPLAZAの登録内容を一部変更。しかし「分類のためキーワードやジャンルを指定してください」と言われると毎回困ってしまうのだった。一番正直に答えれば、「テーマは私だぁっ!」(と叫びつついきなり脱ぐ)ということになるのだが…誰も読まないよな、そんなの。仕方なくもう少しまともなキーワードを考え考え選んで登録すると、先方のコンピュータが確認のメールを即座に送り返してくる。まるで他人のページのような機械的な記述を見て初めて、「あ、うちはこういうページなのか」と分かったような気分になるのだった。
■ タイトル :仮想温泉ぷろめてうす
■ ふりがな :かそうおんせんふろめてうす(←濁点等は自動的に省いてます)
■ 運営組織名 :草迷Q
■ 運営組織種 :個人
■ 管理者名 :草迷Q
■ ページの内容 :子供が見ても大丈夫
■ キーワード :銭湯 馬鹿 バカ 昭和 香港映画 上野 総武線 随筆 京成線 ツイ・ハーク ジョン・ウー 時代錯誤
■ 登録希望日 :1999/03/09
■ ジャンル
ホビー・レジャー/読書(本)
ホビー・レジャー/雑学
ホビー・レジャー/温泉
アート/映画@エンターテイメント/その他映画情報
エンターテイメント/映画/その他映画情報
生活情報・健康/地域情報(地域別)/千葉県
文化・社会/文化
文化・社会/文学
個人・団体ページ/地域別/北アメリカ
個人・団体ページ/日記
■ コメント 文章専科!時代を逆走する男が渾身の力で贈る、夏の午後のテキスト正拳突き、地獄の西向き四畳半。蛇婆なし枠なし愛想なし画像なし覚悟あり。見て損はなし、得もなし♪
…だ、そうです。(半信半疑)
3/7
(1) 大学のサークルの二年上に、いっぱしの女たらしがいた。役職上の後輩に当たる私はなにかと彼に教わることが多くて、丁稚のようにあちこちついて回っていたのだが、行く先々に彼女を作る彼の元気とマメさにはつくづく感心したものだ。私の知っている範囲だけで、常に最低三人は確保していた模様である。おたがい承知の軽いつきあいならともかく、どちらかというと隙あらばドアも壁も天井も突き破って男が押し寄せてくるタイプのムスメたちが揃いも揃って彼にベタ惚れであった。彼女らの一人一人とそれなりに親しいにもかかわらず、そんな状況を黙って見ている私に、彼は時々言い訳がましいことを口にした。もちろん実のところ彼は反省などしていないし、私もべつに腹を立てて黙っていた訳ではない。多かれ少なかれ男にはハーレムを作りたがる習性があるし、また「もてない」のと「道徳的に正しい」のはまるきり別の問題である。さらにロクでもない話をすれば、私は自分で何かするより、他人の行動を観察してノートなど取っている方が楽しいのだった。ともに究めん鬼畜道♪
(2) Nisus Writerというマッキントッシュのワープロを御存知だろうか?「文章を書くこと」そして「MacOSの無謀な先進機能を最大限に引き出すこと」だけに徹した、テキストばか感涙の骨太名作ソフトである。そう、起動しただけで無敵の豪剣を構えたサムラーイの気分になれるソフトなぞ、滅多に見つかるものではない。肝心のリンゴ屋が不甲斐なかったおかげでここ数年さんざん要らぬ苦労をしたらしいこのNisus Software社、ちかごろ前バージョンのNisus Writerをそのままフリーウェアとして公開するなど、思い切った戦略に出ている。いったい経営は大丈夫なのか…そんなユーザーの心配をよそに、今回さらに機能をシェイプアップしたエディタ的ワープロ・Nisus Compactが登場した。またもや無料配布である。こちらは豪剣を仕立て直した忍者刀というところだろうか、立ち上がりはひたすら軽快。日本語と英語の切り替えを意識せずにバリバリ使えて変移抜刀霞斬りな上、充実したオートセーブ機能はしっかり残してあったりして、「ふんがー!」と書き始めると二秒でバックアップを忘れるバーサーカーな私も安心なのだ。あああ、もうそのへんの日曜大工エディタなんて要らないかも。気になる御仁は電子よりも疾くNisus社のページへ走られよ。もちろん豪剣バージョンも要チェックだ!
2/27
「万一私が命を落としても、気の毒に思ったりはしないでください。私は寄る辺なき者、十一歳の時から孤児で、多くの苦しみをなめてきました。死ぬことは何でもありません。記録への挑戦は、私の自己表現なのです。医者にも手の打ちようがなくなったら、私が倒れた道の側に埋めてください」いまから四十年以上まえ、自転車による最高速度記録に挑んでいたフランス人Jose Meiffretが、いつもポケットに入れていたメモである。1952年、ドイツのフリーウェイを時速130km近いスピードで走行中に事故を起こした彼は、そのまま115mも転がり滑走する間に頭蓋骨に五カ所の損傷を受け、遂には「痙攣する肉塊」となって路上に横たわった。しかし一命を取り留めた彼は、トラピストの修道院に入って十年間著述とリハビリに専念し、おそらくは速さへの執念だけで奇跡的に再起を遂げる。1962年、彼が残した最高記録は、じつに時速204km。当時すでに50歳であった。
ここまでくると単純な若さや体力だけでは到達できない境地らしい。現在の世界記録は1995年、オランダのFred Rompelbergが49歳で達成した時速268km。図書館でたまたま見つけたこの本 "Bike Cult"(『自転車狂たち』)に、おそらくまだ走っているであろうロンペルベルグ氏の人となりについては何も書かれていない。しかし、「普通の意味で幸せ」な五十男なら、守るべきものや止める人間が多すぎて、こんな馬鹿なことに命を張ってはいられないはずだ。「若者は偉大な人物に憧れるが、実のところ偉大さとは一種の病気にほかならない」と書いた大作家がいた。神に喧嘩を売る男の話を書き続けた彼自身も、やはり同じ病気の持ち主だったにちがいない。
2/22
(1) 学食と寮の間のだだっ広い芝生でサングラスのデブいおっさんと遊んでいた巻き毛の小さな犬が、ボールくわえてテッテケ戻ってくる途中ふと立ち止まったと思うと、その場でひょいとかがんで小用を足し、何事もなかったようにまたボールを拾い上げて嬉しそうにおっさんの方へ走り出すのだった。脈絡も躊躇もない行動は不思議に美しい。
(2) ↑というわけで(むりやり繋ぐ)、「これおもしろいよ」「ここ知ってる?」というゲリラ的無責任リンクを、フロントページの「一言」を使って今後ときどきやろうと思います。初回からいきなりアレですが…
2/14
巨大な図書館は一個の宇宙である。食い物が存在しないという最大の欠陥に目をつぶれば、その中で生活することもできなくはない。このところ私が半分住み着いている大学図書館は、コンピュータ室や貸し出しカウンターのある一階二階、各種オフィスの入った十階から十二階を除けば、あとはすべて人気のない書棚と閲覧用のテーブルで埋まっている。冬休み中は広大なフロアに私一人という事態もままあって、「うひひひひオレのオレのオレの(…中略)状態」を満喫したものだ。
呪文書から逃げ出したくなったときは、巨大な書棚の間をうろついて字の少なそうな本を探すことにしている。宇宙というのは人知を越えているからこそ宇宙なので、この図書館宇宙にもよくわからないものが多数存在する。先日発見した大型本は、『島根大学1987年度卒業アルバム』というタイトルであった。古代にも外宇宙文明との交流が存在した証拠であろう。かの文明について書かれたものには、ほかにも謎の文献が多い。『Meeting Japan 男女』『Shoriki, the Miracle Man』『Iron Body Ninja』…イッてみたいなよそのくに。
2/11
えー…やはり寒いときはお茶に限ります(ずずー)…で、更新箇所は…更新箇所はと…先月うっかり真っ白で作ってしまったタイトル文字を、テキストと同じ、黄ばんだ歯のような病気の月のような質流れの麻雀牌のようなやる気のない色に変えたりはしたのですが…たぶん誰も…いやしかし見えないところの御洒落が肝要かと…けっして何もしてないわけでは…そういえばむかし久生十蘭の『膚色の月』を買った寂れた商店街の古本屋の店番はちょっと不釣り合いなほど上品な奥さんで…とうに絶版になった古い文庫本の紙の色もアタクシは好きですな…たぶん前世は紙魚…夜空にかかる月が膚色に濁っているのに気付いた女が死期を悟るという…書いてた十蘭さん自身も病気がいよいよ駄目で…なにしろペンネームがあれですから…中学に上がるか上がらないかの生意気盛りの男の子の二人連れが、日曜の日暮れ時になると山積みのエロ本を真剣に漁ったあげく一冊ずつ買っていったりする、文字通りに潰れそうな、いや実はとっくに潰れているような店でした…結局読んでないんですけどね、鞄ひとつで亜墨利加に来ちゃったから…今ごろまたどっかの古本屋に並んでるでしょうハヽヽヽ…西蔵密教の本なんかもあの店にはあったな…自分が生まれ変わるとは思えませんが(いや紙魚ってのはモノの喩えで)…うーん、頭の中であるていど腐ったものじゃないと書けないんですよ、だから日記はちょっと…目や耳から入ったものが、いったん自分という渾沌の中に溶けて、いつの間にか別の形でポコンと出てくるのは、これはやはり輪廻のイメージじゃないかと…独創と剽窃は逆のようで実は切り離せないとか書いてる人がいましたね…しかし「こころにうつりゆくよしなしごとを そこはかとなくかきつくれば」これは真っ赤な嘘ですな。そのまんま書いたらこうなっちゃうもの…でも書くほうはけっこう身勝手に楽しかったりして…あやしうこそものぐるほしけれ。
(↑シメは、さる干物状青年の文章のパクリ)
2/4
「やじられ屋」もしくは「人気大根役者」という職業は確かに存在する。彼が期待通りハズすたび観客は大喜びで生玉子やカボチャやキャベツを投げ付けるのだが、本人一向にこたえておらず、ますますパワーアップするへなちょこパフォーマンスに、ステージと客席は一体となって盛り上がるのだ。なまじ大根でもない例の底抜け大統領と同じ芸風だと思えば、かのジャン=クロード・ヴァン・ダムもけっこう偉いヒトなのかもしれない。いや二人とも偉くないのか…まあどっちでもいいや。とにかくヴァンダムさんの話である。いまやハリウッドにやって来る香港映画人にとって登竜門、いや鬼門と化している彼は、映画ファンのゆがんだ愛を一身に浴びる存在だ。「あの木ぎれ」「ブリュッセル産の肉」「えんどう豆サイズの脳を持った訴訟好きのダダっ子」香港寄りのページでさんざん叩かれるのは仕方がないとしても、一般芸能ジャーナリズムも負けてはいない。先日も自作自演オレさま回し蹴り映画(*1)の原案を巡って身内を相手に裁判を起こした彼について、さる芸能ニュース(*2)のコメンテーターは淡々と事実を伝えたあと、ぼそり一言。「…しかしあれが裁判で争うようなアイディアでしょうか?」なんのかんの言われながら「今日のヴァンダムくん」コーナーができそうな勢いの彼は、もはや存在そのものが芸なのであった。だれかファンページつくってくれ。
(*1) 『クエスト』。尊敬するブルース・リーに捧げる作品だそうで。たしか西友裏の例の店にもあったなあ。
(*2) 気が付けば毎日のようにチェックしている"Entertainment Asylum's Daily Wire"。 毒があってバカで面白いのだ。要Realplayer。
2/1
(1) 「ジャムのはみ出たジャムパンはカッコ悪いよな」という下らない自意識のお陰で、いい歳こいて感情表現が苦手である。そのくせ他人がこぼしたジャムをちょっと舐めたりするのは大好物(←いかがわしい表現だねえ)なのだから始末が悪い。パンもお餅もサンドイッチもオニギリも、絶対に中身がこぼれないようなのは安物に決まっているのである。コンビニで120円。
(2) 彼は死なないし引退もしないと、昭和な私は頭のどこかで思い込んでおりました。黙祷。
1/27
「好きなメシ屋」
総武線の駅から歩いて二十分以上の住宅地の中なので収入の中心は出前である。二叉路の分かれ目、ダンプが突っ込みそうなショートケーキ型の妙な敷地。おかげでテーブルは三つしかない。平日の昼下がりに大きな男がひとり入ってきたりすると、入り口に背を向け客用のテーブルに座って客用のコップと灰皿を前にワイドショーちらちらと新聞読んでいた親父がギョッとして振り返る。慌てて営業モードに戻った店主兼調理人兼ウエイターが持ってきた卓上メニューには調理場の油が沁みている。パイプの椅子は脚が一本短くてコンクリの床とゴツゴツ会話。使い込んだ14型テレビの画面が陽の差し込む側から青緑色に変色している。テレビを中心に、日本各地の提灯やペナントや十手や安手の風景画や般若の面が並んでいる。棚の上で招き猫が灰色に煤けたまま遠くを見ている。年季が入りすぎて折れ曲がった髭に糸埃が絡まっている。よく見るとテレビにはスーパーファミコンが繋がっている。疾風迅雷の勢いで出てきたモヤシラーメンはモヤシが煮えてなくて水っぽい。三口すすったところでガラガラと暖簾をくぐったのは、またしても時ならぬ客…ならぬここの娘。赤いランドセルを調理場に転がして薄暗い階段を靴下が駆け上がったと思うと、さらに三口すする間に塾のカバンが駆け出していった。
腹の虫が泣きやんで水など飲んでいると、なんだか床が傾いているのに気づく。当然のごとくテーブルも傾いている。私も傾いている。午後ってのは傾いてる時間だ。「ごっツォさん」「はい500円」
1/25
「あれだけゾロゾロいた漱石の弟子の中に、師匠を超えたのは一人もいない。だから日本の師弟関係は駄目なんです。」
「日夏耿之介?あんな難しい漢字ばかり使うのは文章が下手な証拠ですよ。」
以上、わが友雨森青少年のキビしいお言葉より。
***********************
さる国産フリーウェアの "about (this software)" を何気なく開いてみたら、作者のカラー顔面写真(カメラ目線のキメキメ)がいきなり出てきて、一瞬ウッとのけぞった後、大して使えるわけでもなかったそのソフトはあっさり「ごみ箱」行きとなったのであった。ふだん着けて歩く分には仕方がないとしても、ネットその他で大量に配付するのに適する顔と適さない顔があると私は思うのだ。なに、野郎の意見なんざどうでもいい?そうか…
*********************** 「人間らしくやりたいナ 人間なんだからナ」
「人間らしい」とは一体どういうことか、統一見解が失われた現在となっては、開高健/サントリーの往年の名コピーもいささか押し付けがましく感じられる。そこで少し言葉を補ってみよう。
「ダメ人間らしくやりたいナ ダメ人間なんだからナ」
………駄目だナ。
1/22
新学期がようやく始まって、原住民にはいささか評判の悪い学食のメシを餓えかかっていた私は感涙にむせびつつ犬のように食い、大発生した青少年が新しい教科書の袋を提げてfuckだshitだと悪態つきながら往来する雪解けの泥んこ路には過激なダイエットを終えた寝ぼけリスが軽快にフラフラとはしくり回り、隣の大学では二十歳そこそこの学生カップルがあっさり射殺され、なつかしのジパングからは時空を超えた謎の小型情報装置が送られてきて、なんか収拾のつかない私です。ところで宿帳新しくなりました。これからの書き込みはそちらに書き込むと書き込むのが容易かつ快適だと思われます全宇宙の皆様♪
K-GA様
このまえ食料を仕入れに行ったコンビニで、恐怖の大王とハルマゲドンがどーのこーのいう雑誌を見掛けました。表紙は預言者らしき白い髭の人物がこっちを指さして何か警告しているカラー写真。どっかのモデルエージェントから派遣されたらしい爺さんおよび彼の中世風衣装が思いきり安っぽくて脱力。日本だと、こういうのは実写じゃなくてイラストを使いますけどね。
いちご様
世の中が男と女で出来ているというのは実は正確ではなくて、「女から見た男」「男から見た男」「男から見た女」「女から見た女」はそれぞれ別物だと考えたほうがいい…みたいな話をどこかで読んだことが。いつも自分が見聞きしたことを文章に書いていて思うのは、これは起こった出来事の無数の解釈のうちの一つに過ぎないということです。平手打ち娘から見れば、あれは全然別のお話なのかもしれません…
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「日本人は白人、殊に金髪の異性に対し劣等感の混じった特殊な欲情を抱く」という偏見(残念ながら、統計的に見るとなまじ偏見とも言えないのがまたシャクに障るのだが)には根強いものがあって、順番待ちその他で白人カップルのそばに一人立っていたりすると、しばしば退屈した男がチラチラとこちらを見ながらガールフレンドに抱きついたり吸い付いたり、「いーだろー、オレのオレの」的デモンストレーションを開始することがある。あいにく私は病的なほど羨望や嫉妬の感情に欠けた人間なので、悪名高き「東洋の無表情」のままぼーっとしている。世間には他人の行動に頓着しない(または、そういうフリをするのが好きな)人種と、そういう人間を振り向かせないと気が済まないハタ迷惑な人々がいて、「いーだろ」男は明らかに後者だ。で、お互い意地になって『山椒魚』のごとき暗闘を展開するうちに、巻き込まれた第三者、すなわち男たちの熱きバトルを理解しないまま吸い付かれている女がキレるのであった。さすがメリケン女性、ガタイの良さは伊達ではなくて、先日ファーストフード中華の行列で遭遇した「オレのオレの男」はいきなり横っ面に水平方向から見事な平手打ちを喰らっておった。キビシいのう…
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思うに人間はケモノなので私はケモノっぽい人が結構好きなのだが世の中は色々と窮屈なのでケモノには一人ずつ飼い主がついて、合わせて一人の人間ということになっている。飼い主の居ないケモノは片っ端から檻に入れられてしまうのだから世間とは怖いところだ。たまに体を動かさないとケモノはクルったり死んだりするので毎日散歩に出なければならない。人付き合いというのは公園にケモノを連れてきた飼い主二人(もしくは飼い主を引っ張ってきたケモノ二匹)の立ち話みたいなものだと思う。飼い主にその気がなくてもケモノ二匹はフンフンと匂いを嗅ぎあっただけでお互い気に入ってじゃれ始めたり、飼い主が浮世の義理で挨拶でもと思ってもケモノ同士が大喧嘩だったり、まあ色々と大変なのだ。
ところで当温泉は主にケモノが書いております。したがって…
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図書館の端末では日本語のページが表示できないので(どうしても見たい日本語ページはメールで自室に転送)、このところWeb上での楽しみはジョン・ウー関係の英文資料集めである。世界は狭いんだか広いんだか、検索すると出るわ出るわ、アメリカを始めとしてドイツやフランスにもファンページがわらわらと。大半が香港時代から作品を追っかけている熱き四畳半な人々で、アジアの映画がヨーロッパにまともに入ってこない状況に怒りつつも(まず輸入されない、されたと思えば吹き替えがヘボい、あるいは勝手に短縮されてる…)、熱狂的にウー作品の魅力を語る一方、納得のいかないブツは容赦なく叩っ斬る姿勢が日本人離れしていて(当たり前だ)、読んでるうちに言葉や文化の壁を越えて体温が上昇してしまうのである。ここで頭に血が上ったまま本棚の方へ行ったりすると、シェークスピア作品集を探しそうになって非常に危険だ(トニー・レオン in 『ハード・ボイルド』)。影響力と言えば、かのタランティーノは『男たちの挽歌』を見終わるやいなや、チョウ・ユンファ演ずるマークになりたくて例のサングラスと黒いトレンチコートを買いに走ったそうだ。その格好を想像して「に、似合わねェ…」と思わず笑ったものの、そんなバカき日々をちゃんと作品に昇華するのが彼の偉いところである。
ジョン・ウーに話を戻せば、"Face/Off" 以降、メジャーな映画ジャーナリズムからのインタビューが急激に増えているのが分かる。(それ以前は"Asian Trash Movie Magazine" なんてところの取材受けてて「小便飲まされ状態」、泣けるぞ。)しかし「ペキンパーの流れを汲むバイオレンスの人」という一面的な思い込みでウー氏のもとに次々送り込まれる刺客たち…いやインタビュアーは、このいつも笑ったような目で表情の分かりづらい、東洋的謙譲に身を包んだ穏やかな小男を扱いかねている様子で、彼の内面にまで踏み込んだ記事はあまり見当たらない。例えばこんな調子である。「もし私がスター・ウォーズの監督を任されたら?…ルークに光線銃を二丁持たせるでしょうね。…なぜなら、うーん、私はジョン・ウーだから。」どう見ても相手の頭の中身に合わせたパーティー・ジョーク的発言だが、監督がテレビ用の義理仕事などに忙殺されて劇場用新作がなかなか出てこない現在、こういうしょーもない話からでも私はつい妄想の世界に入り込んでしまうのだった。帝国軍の焼き討ちで養父母を殺され、焼け残った衣服を握り締めて怒りに震えるルーク。長衣を風に翻して颯爽と現れるオビワン「スウォーズマン」ケノビ。ハン・ソロ(実は帝国との二重スパイ。ベイダーには個人的恩義あり)、チューバッカ(実は中にとんでもないものが入っている)との立場を超えた友情、そしてその陰であっさりと忘れ去られるレイア姫。ストーム・トルーパーの白い死体の山を築いてデス・スター内部の狭い階段を駆け上がる二丁拳銃のルークとハン、掩護するのは全身を武器庫と化して火花と硝煙にまみれながら鬼神のごとく暴れ回るR2-D2とC3PO。(←人間より弱いロボットなぞ要らん。)部屋が無くなるほど撃ちまくってもなぜか一発も当たらない至近距離の銃撃戦の末、レーザードスを喉元に突き付けあって宿命の父子は対峙する。
「親父、カタギに戻ってくれッ!」
「イヤじゃ。(すーはー)」
結局ケリがつかずに続編ではいつの間にか監督が替わって、銀河皇帝が高笑いしながらベイダーの生命力を吸い取ってパワーアップしたり、チューバッカが野獣の咆哮もろとも、突進してくるエアバイクを拳でぶち落としたり…あああ駄目だ、私の想像力では彼らのテンションにぜんぜん届かない。しかし『食神』ハリウッドリメイクだ!なんて騒いでる一方で、ジャンルによっては香港あるいは香港系スタッフで作り直したほうが断然面白くなりそうなハリウッド作品も最近とみに増えているのではなかろうか、SFはともかくとして。いつまでたってもハリウッドにタカられては喜んでる日本のゲーム業界あたりも、そろそろ投資の方向を考え直したほうがいいのである。いや、「ジャッキー・チェンの実写格闘ゲーム」とかじゃなくてね…
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雪は三十日の未明から断続的に降り続いている。一時間ごとに晴れたり降ったり曇ったり妙な天気だ。むかしむかし「アメリカ人はご飯の代わりにパンを食う」などと大嘘を吹き込まれたものだが、「アメリカ人はクリスマスを熱心に祝う代りに正月は軽く流す」というのもどうやらその種の偏見であったらしい。要するに日本文化のAの部分にBを代入してもアメリカの文化にはならないのである。英単語を一つ一つ辞書通りに直訳して並べても訳の分からない日本語になってしまうのと同じ理屈か。しかし今の私にそんな理屈はどうでもよかった。24日から27日までみっちり休んだはずの学生センターは三賀日(とは言わないだろうが)もしっかり休むのである。おかげで学内で飲食物はいっさい手に入らない。とにかく腹が減った私は、重装備に身を固めて食料を探す旅に出た。
キャンパスの中でも秘境と呼ばれる部分に現在の寮はあって、最寄りのコンビニまで三キロの旅程の半分近くは学内の道のりである。いつもフットボールの試合だの学生ファンクバンド『仏陀の歯ぶらし』の野外コンサートだの学生親睦会の「チャリティー牛糞ルーレット」だのが行われるだだっ広い芝生は一面の雪原と化していた。見渡すかぎり誰も踏んでいない雪原に点々と一筋の足跡を付けて歩いていく…という状況は、部屋の中で書いたり読んだりするのには結構な場面でも実際に体験するとあまり楽しくない。行けども行けども景色が変化しないのである。真っ白なページを延々めくり続けているようなものだ。
芝生を抜けて学生センター前の広場までやって来ると、ようやく「読めるもの」が現れる。足跡があちこちに残っていて、猟師の真似事ができるのだ。浅い足跡は小柄な人間。深い足跡は大男。これは二人連れ。これは犬連れ。ここで走りだした。ここでコケた。過去数時間の出来事がそのまま蓄積されているので、いま人の気配が無くても、結構にぎやかな気分になれる。
広場を外れると、人間の足跡が減って、今度は動物の足跡が増えてきた。いちばん分かりやすいのは、カラスの足跡。雪が積もって以来、さすがにリスは見掛けない。したがって妙に間隔の広い細長い足跡は、野兎だろうか?ピーターラビットのような茶色い野兎が、学内には何匹かいるのである。暖かい時期の夜には、よく寮の出入り口のそばの何でもない芝生で彼らが寝ていた。蹴っ飛ばしそうになってお互い慌てたものだ。
けっきょく往来に出るまでに30分近くかかってしまった。「自動車=下駄」という等式だけは間違っていないらしく、田舎道の割には車がよく走っている。この寒いのに下駄もはかずに歩いている人間はめったに見掛けない。通りすぎる店がすべて閉まっているので、この調子でコンビニも閉まっていたらどうしよう…と身の危険を感じる。「ニューヨークの香り・Bomber サンドウィッチ」の店も今日は休みである。看板にはホットドッグ型のアメリカ式サンドウィッチとケバいピンク色のアイスクリームの間にへたくそな高層ビルの絵が重なるように三つ書いてあって、そのへんが「ニューヨークの香り」を表現しているらしい。そこに存在する距離感は日本の田舎から見たニューヨークとあまり変りがなくて、世界じゅうどこへ行っても或る意味で田舎はすべて同じかもしれん、などと乱暴な結論に達しそうになる。
雪のせいで景色が良く見えず、散々回り道をしてやってきたコンビニは幸いにして開いていた。朝でも晩でも旗日でも、客さえいれば商売しまっせ、というこのシステムは、たぶんアメリカが元祖なのだ。暖かい店内には「あなたの愛を得るためなら私は何でもするであろう」という流行歌が流れていた。今の私には愛よりも食い物である。腹持ちのよさそうな牛と芋の缶詰(安い!)だの乾麺だのをごっそりカゴに入れてレジに並ぶと、隣のレジで精算中の、村立大学関係者らしい白人のおばちゃん客が店員と話していた。「一月一日に起こることは一年の残りの部分を決定すると日本では言うそうだ」「で、今日はどう?」「現在までのところイマイチである」…案外と世界は狭い。
勘定を済ませて外に出ると、先刻までの吹雪が嘘のように晴れ上がり、きらきらと光る低い家並や木立の彼方に大学のロゴの付いたタージマハルみたいな妙な塔(たぶん気象レーダーのカバー)が青空を背にぽかりぽかりと浮かんで見える。だまされた気分で塔に向かってまっすぐ歩いて帰ったものの、コンビニ袋を提げて歩くにはやはり結構な距離であった。世界が狭くなっても、あいかわらず村は無意味に広い。
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