全手動お散歩記録装置

新・うみうし

 

〜序文〜

 伊能忠敬の時代から私は発展していない男なので、ある土地を知るためには徹底して歩き回るほかにない。残念ながら当メリケン国において、人々は歩くということを一向したがらぬようだ。用事があれば車で一直線、運動したいときにはスヱットスーツもしくは短パンに着替えて決然と走り出す。はなはだ合理的なこの文化に対し、私の中の日本は断固として人間存在における「お散歩」の必要性を主張するのだった。歩かなければ見えてこないものが、世界には無数に存在する。「今日は床屋を探そう」目的はこの程度でよろしい。門も塀もない大学の敷地を出て雑木林に混じる家々の間をふらふら行けば、庭先で遊んでいた三輪車の西洋童女がしばしキョトンとこちらを見つめたのち陽溜りのタンポポのごとく微笑みかける。冬ごもりの準備に余念のない黒リスは人影に驚いて口一杯のドングリを落っことしたと思うと周囲の一切を忘れて転がる木の実を追いまわす。芝生で昼寝の蜂蜜猫は二本足の同類が通り過ぎるのを夢うつつの半眼で見送っては再びミルク皿と暖炉の夢に回帰する-------

 …というわけで、新しい「うみうし」はわたくしのタマシイのお散歩記録なのです。

 


霜月十日のころ

 

 きたるべき冬に関してはロクな噂を聞かない。鼻水も凍る、と聞けばそれ以上知る勇気も失せる。おだやかな秋の週末には近所をふらついて、せいぜい日光を吸収しておこう。落ち葉を踏んで歩くのは昔から好きだった。歩道にはお隣の国の旗そっくりのカエデの葉っぱがうずたかく積もっていて、メイプル・シロップが安い理由がよく分かる。ここ数日冬眠したとばかり思っていたリスたちが、暖い日にはすかさず登場。頭から枯れ葉の山に突っ込んでごそごそしていると思うと、口いっぱいに枯れ葉をくわえて樹に駆け上がってゆく。どうやら寝室の隙間風が気になるらしい。

 通り過ぎる辻々には小さな木の看板。「大学通り」。「もみの樹通り」。「丘の上通り」。「桜通り」。日本で真似すると小っ恥ずかしいだけの道の名前も、ここでは単なる「そのまんま」だ。家々はまばらな雑木林に紛れるように、点々と建っている。大邸宅の建ちそうな大きな庭の、通りからずいぶん引っ込んだところに、質素な木の二階家を建てるのがこのあたりの習慣らしい。核家族に大きな家は要らぬということか。敷地には一応区切りがあるものの、これだけ人がまばらだとブロック塀などで真剣に囲う気にもならないらしく、牧場のような低い木の柵の横木がところどころ外れて落っこちていたりして、やる気のないことはなはだしい。わびさび炸裂である。わびさびといえば、あちらこちらの家で爺さん婆さんが庭先に出て落ち葉を掃除している。月夜に魔女の乗るようなホーキで掃くのかと思ったら、芝刈り機の万能強力エンヂンに専用の送風管を付けてブイブイ吹き飛ばすのだ。やはりメリケン人にわびさびは無縁であった。

 機械を使って節約した労力は、てんでに庭や家の装飾に振り向けられる。その装飾が、ことごとくおバカで、平然と子供。玄関先に何故かはためいている、「熊のぷーさん」や「謎のでぶ猫」の旗。庭木に見えない巨大な庭木には、風車が回ると能天気な鳥や人がカタカタ動く手作りの玩具。ハロウィンが過ぎても一向に高笑いの止まらないカボチャ大魔王と、その部下たち。樹の影に隠れて通りを窺っているベニア板の平面探偵と、その足許にじゃれつく平面猫。「地方判事ゼームス氏を再選しやう!」支持者が自分の庭に立てた元気のいい看板が、先日の風で地面に落ちて半ば落ち葉に埋もれている。早く直してやらないとゼームス氏も落っこちるぞ。「時計売ります。」当座の不用品を捌くにしてはしっかりした立札だと思ったら、どうやら趣味で手作りの時計を売っているらしい…

* * * * * * * * *

 今回一応の目的は近所のこんぴうた屋さんの偵察なのである。こんぴうたは日常のフツーの道具なので、住宅地のはずれ、州道沿いスーパーの隣の店構えにはまるでとんがったところがなくて、どっちかというと金物屋か何かに似ていた。アゴが外れるほど暇な午後にふらりと入ってきた客から予期せぬ名を聞いて、中国系らしい店のオヤジはいきなり絶句。「まっきんとっしゅ?」このへんではマルクス主義より珍しい言葉らしい。

 ショックからようやく立ち直ったオヤジが訊く。

「…あんたどこから来たの」

「じゃぺん。」

「………………………」

「………………………」

黄色い男ふたり絶句する村の秋。

 


 
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