白っぽいカウンターはひどく油染みていてあんまり手を載せたくない状態、薄暗い奥の方では明らかに炭水化物の摂り過ぎと思われる女の子みたいなおかっぱの少年が腰を下ろして備え付けの漫画雑誌を読んでいたが、岡持を渡されて大儀そうに出ていったところをみるとここの息子であるらしかった。街はずれT字路の突き当たり、傾いた灰色のラーメン屋。もちろん表から見てもいい雰囲気ではなかったが、私の空腹はそれを上回っており、またその午後の屈託した気分は、うらぶれたその店におのずと惹き付けられたのかもしれない。

 注文したものを待っている間、初めて来た客らしくこれ以上店内をあちこち見回すことは、この店の場合神経性の食中毒を誘発する危険があった。私は文庫本を広げて外界を遮断することにしたのだが、10分ほど経ったころふと視界の端で何か黒いものが動くような気がして目をやると、そこでは一匹のゴキブリが、ちょうどカウンターにこびりついた油を舐めて腹の足しにしようとしているところだった。

 かねてからの私の持論なのだが、昆虫のくせに、ゴキブリというやつには感情も表情もある。私と「目が合った」とき、彼は明らかに食事を中断して「しまった!」という顔をした。「あんた…オレを殺る気か?」神経質そうに触覚を震わせながら目顔で尋ねる彼。私は答えた。「いや…オレはそんなに『人間味』のある奴じゃないさ…お互い命は長いほうがいいだろう」0.2秒で話がついたのは、ひょっとすると私たちが似た者同士だったからかもしれない。何事もなかったように、奴は食事に、私は本に戻ろうとした…のだが、その瞬間二人は凄まじい殺気を感じて同時に頭上を見上げた。

 一目であの少年の母親と分かる、堂々たる体躯の中年女が、それこそ荒木飛呂彦のマンガのような「ゴゴゴゴ…」という擬音をバックに背負って、丼を手に、われわれを傲然と見下ろしていた。

 停止した時間の中で、三人の中ではさまざまな思惑が一瞬のうちに駆け巡る。

「ゴキブリ…殺ス!!!」「本気だ!」「逃げ…」「食品衛生法」「手はふさがって」「駄目だカウンターが広すぎ」「見ラレタ、店ノ秘密見ラレタ」「見ない何も見ない」「ほっといてくれ俺達の間では話が」「ゴキブリト会話シテル、コノ客モ仲間」「ちっがーう!(たぶん)」「デモ客」「家族が、家族が居るんだ」「あんたにも息子がいるだろーが!」「客殺ス、マズイ」…

 …話が通じたとは思えない。結局われわれ三人は、お互いに「他者」なのである。しかし少なくとも、その場では誰も死なずにすんだ。ゴキブリ氏は雲を霞と逃げ去り、私は「麻婆ラーメン大盛」を前に何事もなかったような顔で割箸を割り、「…イツデモ殺セル…」と思い直したらしい中年女はのっしのっしとカウンターの奥へ消えた。後のことは…知らん。