西船時代
 
其の壱「雨」
 八年ほど前の雨のよる総武線西船橋駅前の電話ボックスで長話をしていたら突然まだ若い酔っぱらい女が何事か喚きつつ背後のドアを「どどどむ」と殴るわ蹴るわヒロシとかいう男に電話したいらしいのだがボックスは他にいくらでも空いていてせっつかれる筋合いもなし連れの女が懸命に止めようとしているので多分大丈夫とガラス越しにビシビシ背中に当たる殺気に脅えつつ電話続けたもののますます妖しくなる気配にもう一度振り返れば実は止めていた女も素面とは程遠く今や二人とも原色のネオン濡れ光るアスファルトに倒れ込み髪も服もヌメヌメと我が身に張り付かせ叫びはすでに人語を離れ天に吼え地を這い形相いよいよもの凄まじく…

 

其の弐「智恵子症」
(『失楽園』が流行るだいぶ前に駅前の床屋で耳にした会話)
 

「お客さん、チエコショウって小説知ってる?むかし智恵子さんって綺麗な奥さんがいてね、その人かわいそうに頭がおかしくなったんだって。それで病気の名前が智恵子症。タカムラコータローって作家が治してあげようと思って、一緒に山に籠ったんだけど、どーしても治らなかったんだってね。いや普通なら不倫だよ、でもブンガクだから不倫じゃないんだよ…」

 

 
其の参「ある種の天然記念物の保護について」
(友人へのメールより)
 またしても西船橋の怪しい店について。畑の中に妙な形の駅ができたと思ったら社員寮独身寮コンビニパチンコ屋ウゾウゾと増殖して発生したアメーバ状の街・西船橋にメインストリート(あるいはもっとも太くて長い触手)のようなものがあるとすれば、それはJRの駅から北へ京成の駅をかすめ土日には銀バエのごとくギラつく競馬オヤヂども無数に詰め込んだ寿司バスが軒先こすりつつ中山方面へピストンするひん曲がった二車線なのですが、それが伝統の「バクチ街道」国道14号線と交差するどーしょーもない悪場所に問題の古書店は存在します。主人はかのドシャメシャピアニスト山下洋輔氏が何らかの改造手術もしくは宇宙的啓示を受けて大人しくなってしまったような寡黙なイガグリ頭、奥さんと二人でやってる店はご多分に漏れずビニールに入った古エロ本のうずたかい山とカバーのほころびたマンガ類の重みで永遠に傾斜しており、この季節にはコート姿のアザラシ状サラリーマンが「……」と独り己が魂に呟きつつエロ本を選び、カウンターで「……」「ぱりぱり」「ちゃり」「……」「がさ」と会話しては平たい紙袋を小脇に北方へイソイソと去っていく、というまさに総武線の王道を行くカビ臭いタソガレの世界。とはいえやはり洋輔氏、それだけに甘んじてはいない。マンガとエロ本と時代オヤヂ小説とハーレクィンを横目に日の当たらない奥津城に辿り着けば、突如としてそこに広がる思想と文学のワンダーワールド!(ってほどのもんでもないけど、まあ気分的に。)ユングにフロイトにラカンにレヴィ・ストロース、折口に柳田、ロレンスにT.S.エリオット、中沢新一とか山口昌夫もまぎれこんでたりして。うふうふふふうふふふふ。大学関係者らしい鼻づまり気味の眼鏡男が得体のしれぬ黒っぽいショルダーバッグ下げてすぐそばにいても、ここなら許す。

 例のゲロバケツ寮に入って以来だから、こことの付き合いはもう九年目になります。以前からなにか買うたびに「ぬむう、ユング…」「む、人類学、む…」と寡黙かつ前向きにコンタクトを試みてきた洋輔氏ですが、このあいだ、この穴蔵でボロボロの岩波文庫(一冊200円)を三冊買ったら、「むす、本屋冥利に尽きますな、むすす」とのお言葉を賜りました。すぐそばで魂の声に耳傾けながらエロ本を選んでる中年男性すなわちこの店の経営を支えている最大の顧客層に商人としてもう少し敬意を払った方が良いのでは、と思いつつも、貧乏好青年風の笑顔で「ええ、また来ます。」と言って出てきました。最近、近所じゃないからあまり行けないけど、月に一度ぐらい『智恵子症』(ここに行くと髪の毛が短くなるので好きです。)に行ったあとは必ず寄ることにしています。この店、ご存じでしたか?