夕暮の電車の中で行きつけのパン屋の焼きたてのパンの匂いをふと思い出して、今度また買いに行こう、と思った途端、その店の正確な場所も名前も知らないことに気付く。たしか江戸川のすぐそばだった、と妙に薄暗い記憶をたどるのだが、常識的に考えれば土手の上にぽつんと一軒だけ店など建てていいはずがない。どうやらまたやってしまったようだ。あのパン屋は、夢の中の「行きつけ」なのだ…

 こんなことが一年に一度ぐらいの頻度で起こるのは、私が昼間っから人一倍ぼんやり生きているせいだろうか。夜ごとの夢の中だけで何カ月も同じ喫茶店や学校に通ったこともある。その場の雰囲気や紅茶の匂いといった、言葉や映像にはならないけれど極めて生理的かつ本質的なものが、たまたま目覚めているときの意識の水面にぽっかりと浮かび上がり、それにつながる記憶のおぼろな糸を海人のようにたどっていくと、意識の湖の裏側にもどうやらもう一つの風景が広がっているらしいことに気付くのだった。こちら側では偶然網にかかる漂着物から想像するしかないのだが、恐らくあちら側の世界もまた「もう一つの現実」と言っていいぐらい広大で、私にとって大切な意味を持っているのかもしれない。

 深い水の底にある別世界と言えば、真っ先に思い出すのは浦島太郎の物語である。目覚めているときの言葉では夢の中のことをうまく語れないのと同様に、彼が持ち帰った唯一の証拠品は美しい箱だけを残し煙となって消えてしまう。似たようなことを考える人間は外国にもいるらしくて、『ターミネーター』や『タイタニック』のキャメロン監督が撮った超お徳用海洋アクション大作『アビス』のクライマックスでは、潜水服ひとつで漆黒の深海に取り残され死を覚悟した主人公の眼前に、突如として光渦巻く異星人の海底都市が現れる。いつぞや場末の名画座の闇の中で何の予測もなくこのシーンに不意打ちされた私は不覚にも涙が止まらなくなって大いに困った。そのときは自分でも理由が分からなかったが、いま思うと当時最先端のCG技術を駆使した「向こう側の世界」の映像に、私の中のウラシマン的傾向ががっちり掴まれてしまったのだろう。力任せに神や悪魔を世界から追い払ってしまった今でも、薄っぺらな文明の下に爬虫類の脳を隠し持つ私たちは「異界」や「異人」を夢見ずにはいられない。頼りない船底の窓から理性の始まる前のウギャーな世界を覗き込むのは、つねに恐怖と魅惑に満ちた作業である。もっとも、映画の方は浦島太郎とは大違いの合理的大ハッピーエンドで、「こーの亜米利加人めが!」と悪態つきつつもしっかり満足させられて私は人工の夢のための暗い部屋を出たのだが。