青砥『慶州』
 
壁面を埋め尽くす短冊の群れ、ざっと数えて一列五十枚。それが三段。ほかにも、「今日のおすすめ」「当店自慢」などと書かれた一回り大きな短冊が三十以上。壁面だけでは足りずに、セルフサービスの水のコップが載った棚にまで短冊は張り付けられている。

定食屋『慶州』。青砥の駅前商店街にやって来るたび、私はフラフラとここに吸い込ま れてしまう。二百種類近いメニューはことごとく600円から900円の間に「~定食」「~セット」の形で収まっている。べつに、最近流行りの「電波系」な どではない。個々の短冊は、あくまで尋常。ただ、ごく勤勉でまっとうな店主達の努力が、長い年月をかけて少しずつ新メニューを開拓していき、いつしか常軌 を逸した巨大なバリエーションを獲得してしまっただけの話であろう。われわれは三次元の生物に過ぎないから、過ぎた時間については粗雑なダイジェストの形 でしか認識することができない。一人の老人が素手で掘り抜いたトンネルに、郵便配達夫が仕事のかたわら建ててしまったガウディのごとき異様な建築に、そしてこの定食屋の膨大なメニューに人が圧倒されるのは、日常の時間という短いスパンから解き放たれた視点で眺めるとき、ひとり(あるいはごく少数)の人間が 時空間の中でいかに巨大な存在となりうるかということを発見してタジログからであろう。シロナガスクジラとも、ギザのピラミッドとも違う「生き続けてきた 一人の人間」としての凄さが、そこにはある。

しかし、なにごとも程々がいい、というのも残念ながら真実である。普段からファース トフードすらテキパキと注文することができない私は、この店の壁面を見ていると、その無数のバラエティーと迫力に取り込まれてしまって、しばし時空の森に さまよい、けっきょく慌てて逃げ出して、少し離れたところに貼ってある「今日のお勧め」あたりを何となく選んでしまうのだ。初めてのルーブル美術館を一時 間で見てまわれと言われた画学生のようなものだろうか。われわれが日々をそれでやり過ごしているところの、安直な思考や選択は、この巨大なメニュー構造体の中では通用しない。もしこのメニューを正面から受けて立つならば、こちらも店主達が費やしてきた時間に敬意を表すべく、毎日ここに通ってメニューをひと つひとつ、端から制覇していく他あるまい。

そんなわけで、「今日のおすすめ・豚肉とホウレンソウとマッシュルームの炒め物定食  750円」をとりあえず「選んで」ほっと一安心した私の耳に、「んっチャカ、んっチャカ」という耳慣れた音楽が飛び込んできた。日曜、夕方の六時半。 「家族はどうあるべきか」を日本中に教導するテレビ番組が、今日も始まったのだ。

原作は、むかし楽しく読んだ記憶がある。あれは「古典」として自分から切り離して読めるので、べつに構わない。しかし、アニメ。生活のディテールを現代風に直してあるだけに、違和感は強烈である。この番組に限らず、どうもテレビというやつは苦手だ。どこの店に行っても、神棚のような位置に飾られて、高いところから「これを見なさい、このように生きなさい」というメッセージを押し付けてく る。その強制力は他のどんなメディアよりも強烈だ。食堂や病院のように、自分でチャンネルを換えたりスイッチを切ったりできない場所では、私はいつも半ば無意識にテレビの見えない席を選ぶようになった。(それに普通はわざわざ選ばなくても、大抵の場所では「空いている席」=「テレビの見えない席」なのであ る。)そしてそういう「非テレビ席」からは、往々にしてテレビよりずっと面白いものが見られるのだ。この『慶州』とて例外ではない。

私はテレビのすぐ脇のせせっこましい二人掛けテーブルに「客席」と向き合う形で座っ ていたので、画面はまるで見えない。テレビの正面には、どぉーんとメニューに埋め尽くされた壁を背にして、四人掛けのテーブルが四つ並んでいる。四十がらみの夫婦が二組、単身赴任風のおっさんが二人、きれいに交互に座って、全員申し合わせたようにテレビの方を向いているおかげで、こちらは簡単に全員を観察 できる。およそ若いカップルというのは、多かれ少なかれ「型通り」であることが多くて、観察の対象としては魅力に欠けるのだが、年をとってくると、どんな 夫婦でも「型」からハミ出るものがジワッと滲み出してくるようになるから人間は面白い。仲のいい夫婦は、並んでいると玄関の下駄箱の上の置物のように納ま りがいいし、そうでない夫婦は飯を食っているだけでも二人の間にズビズバと断層が走っている。


じゅ~、と音を立てながら私の定食がやって来た。例によってサザエやカツオがジタバ タしているのを見るでもなく見ないでもなく、二組の夫婦者と二人の単身赴任者は会話しながら、あるいは黙って、あるいは新聞を片手に、ただ飯を食っている。しなっとしたホウレンソウをつつきながら彼らを眺めていると、ひとりひとりの人間の抱えている膨大な物語が、彼らの背後のメニューに負けない迫力でズ ゴゴと迫ってくるのであった。典型にぴったり収まる人間なんてどこにもいない。「けっきょく万事もとどおり」という予定調和の物語も、厳密には決して存在 しない。みんなそれぞれに小さな宇宙を抱えて、誰とも交換不能の、取り返しのつかない物語を紡ぎながら流れてゆく。長年くっついてる仲のいい二人は、多くの部分を共有するようになるし、それができなかった場合は、誰とも共有できない自分の宇宙を一人でアトラスのごとく担いで生きることになるだろう。まあ しかし、どっちでもいいのだ、とも私は思う。大きな流れというものは、当人の努力というよりは無意識の性向が作りだしていくもので、努力してどっちかに向けられるものではない。それに、あの短冊の群れと一緒に見ていると、幸せも不幸もそれぞれ色違いの短冊のイロイロさと同レベルのことに過ぎないのかもしれない、と思えてくるのだった。あれは、それなりに綺麗だったりしますから。