花の東京と成田を結ぶ私鉄・京成線は、初心者にとってはなかなか敷居の高い路 線でもあるらしい。千葉県内から東京へ戻る知人に「時間があるんなら総武線より京成使えば?空いてるし」などと勧めると、「だってあの線、あちこち枝分か れしててワケわかんないよ」という返事がよく返ってくる。たしかに私も、千葉から上野に行くつもりで西馬込行きに乗り、分岐点の青砥で上野行きに乗換える のを忘れて未知の世界に連れていかれそうになったことが何度かある。しかし、上り方面の間違いは、要するに都心に向かっているわけだから、戻るなり都内で 別の線に乗換えるなり、いろいろとフォローできなくもない。厄介なのは下りである。夜の九時十時という、そろそろ電車が少なくなってくるころに、上野から 帰ってこようとして電車を間違えると、かの秘境「柴又・金町方面」に連れていかれてしまう。この時間帯、分岐点となる高砂駅からヒゲのように伸びる二駅だ けのその支線は、にわかに恐るべきトラップとなって牙を剥く。いったんそこに入り込むと、戻ってくる電車がほとんどないのだ。
 京成線を使ってもう七年ほどになるベテランの私も、うっかりしていて罠にかか ることがある。最後に引っ掛かったのは、たぶん三年前の十月か十一月。歴史小説の文庫本に夢中になっていて、高砂駅で千葉方面行きに乗換えるのを忘れたの だ。幸いにして時刻は夜七時台、まだ電車のある時間だったが、終点の金町で降り、帰宅する緩やかな人波をやり過ごしたあと反対側のホームにまわって時刻表 を見たら、次の上り電車まで途方に暮れるような時間があった。
 ベンチに座る。誰もいない。同じ電車で来た人々は、もうとっくに改札を出て、 それぞれ家路を辿っているに違いない。改札員は控室のカーテンの奥に引っ込んでストーブにあたっているだろう。月天心。ときおり吹く風が、一面の草の海を 撫でてゆく。虫たちの透明な歌声。木の柱の上の淋しい電球が、質屋だのヒサヤ大黒堂だののホーロー看板を照らしている…どうやら三十年ほど前の世界に入り 込んでしまったらしい。物語はいつも過去型だ。あるいは、過去というものはすべて物語にすぎないのかもしれない。記憶の中にしか存在しない過去の現実は、 フィクションとどう違うというのだろう。証拠だの証言だのをいくら集めてみても、過ぎ去った時間の細部はどこまでも曖昧にぼやけてゆく。そんな過去だか物 語だかが、いま目の前にある。どうやら手で触れることもできるようだ。ひょっとすると、ここでは私の方がフィクションなのか。四国の山奥から迷い出てきた 根無し草の私にとって、東京は毎日毎晩お祭りをしている妙な場所だった。これは冗談に違いない、と最初は思ったが、今となっては故郷もまた煤ぼけた遠い過 去だ。おかげでここ数年ずっと、私の生活には現実感が欠けたままである。
 昭和から切り抜かれたような---いや、切り抜きは私の方だった---爺さん が一人、ヨレヨレとホームを歩いてきて、ベンチの端に座った。小さな鞄からおもむろに取り出したのは、かつて「テレコ」などと呼ばれた類の、明らかに ウォークマン以前の設計思想に基づく小型カセットレコーダー。彼の世界では、ヘッドフォンはまだ普及していないのだ。念入りにボリュームを絞った後、彼は ひどく厄介なものを扱う手付きで「再生」ボタンを押し込んだ。どこか頼りないギターの音色が、聞き覚えのあるメロディーを歌いだす。
  『♪影を慕いて』
 耳に残るあの前奏から既にテンポもリズムも怪しく口ごもりつつ呟くようなギ ターの音は、明らかに練習中の素人のものだったが、なにやら妙に身に染みた。爺さんが自分で弾いたのだろうか?つっかえつっかえ、自らの記憶を覗き込みな がら音を拾い集めてゆくようなメロディー。弦の微かな軋み。素人録音特有のノイズ。高忠実性(high fidelity)と称する大嘘吐きの技術が発達したおかげで最近とんと聞かなくなった、スピーカーのサイズに正直な、石鹸箱クラスのチープな音。
 あまりじっと聴いているのも変なので、私はカモフラージュのつもりでさっきの 文庫本を広げたのだが、しょせん浸透力において活字は音楽の敵ではない。紙上の物語に見切りを付けた私は、膝の上に本を広げたままベンチにもたれて月を見上げ、不思議に揺らぐ爺さんのギターを聴いた。月光と虫とギターの銀細工。見渡すかぎりの草原と夜空に、幾重にも広がっていく透明な音の水紋。過去は今。 今は過去…
 
 「ギイ…」

 軋むような音と共に、車庫からゆっくりと電車が出てきたのは、そのまま半時間も経ったころだったろうか。それに乗って私は平成に帰った。